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2.北仲・洲干島、古横浜村の信仰 - 1


北仲(洲干島)とは、以下のように解釈されるべき土地であるだろう。 建築物や一定の空間にただよう気配・性格を決定づける要素は、単に、そこに与えられた機能や環境、空間演出・建物の表面的な形状・装飾だけではない。

北仲(洲干島)に蓄積された記憶や地史・地勢・風景、風の流れ、潮の干満、施主・設計者の思想、周囲を散策する人々のなにげない感情、時代の雰囲気 …。これらが複雑に交差して醸し出されるものこそ、建築空間の気配や性格を決定づける。 施主が「かくあれ」と構想し、作為しただけでは、建築環境の気配は完成しない。

当事者には操作しようがない土地の記憶と意志(≒地霊 ゲニウス・ロキ)こそが、その建築物や街を 未来や過去に結び付ける影の主役であるだろう。

北仲通の北地区と南地区は、横浜村半島の先端に位置し、洲干島と呼ばれていた。 ここは(八臂)宇賀弁才天のすまう島であり、村の総鎮守の役目を担い続けていた。弁天が北仲から去った直後、ここには東海鎮守府が置かれ、ほどなく明治天皇の御用邸が置かれた。 今、旧御用邸部分を囲んだフェンスの中には、大きな穴が出現している。 そして隣接する北仲南地区には、新たな市庁舎が建設される。

土地の記憶と意志(≒ 地霊 ゲニウス・ロキ)が導く場所 … それが北仲である。

土地開発に際し、操作しようのない地霊の協力を得るための手段はあるのだろうか。それは地霊の気配を謙虚に探り、意識し、あたりにただよう微かな声を聞く冒険をおそれないことだ。 地霊が喜ぶ開発のヒントをさぐるすべは、これしかない。

※ ここでいう「地霊」とは、建築や不動産、都市論で使われる「Genius Loci ゲニウス・ロキ」。 先ごろ亡くなった建築史家 鈴木博之氏に『東京の地霊』という好著があり、研究者も多い。その土地の地政学・地勢学的状態や歴史的伝承などか渾然一体となった土地固有の「記憶」や「土地柄」「土地の雰囲気」のごときものを指す。 北仲こそ「横浜村の地霊の地」にふさわしい。

※ 「洲干」の表記・読みは古書により定まらず「洲乾・宗閑・秀閑・汐乾・州干」などがあり、「しゅうかん」と読まれる場合が多い。 しかし、そもそも「洲干」という地名由来は、砂嘴・砂州・砂溜の地だからこそ「洲処/砂処(すか)の地」と呼ばれたはずだ。 各種の地名語源辞典でも解かれているとおり、横須賀の地名由来が「横に伸びた須賀/洲処(すか)の地」であるように。 「すか」とは「砂礫の上の砂地」のことだ。 だとするならば、洲干の読みは「しゅうかん」ではなく、「すかん」とすべきだろう。


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