北仲歴史物語 (河北直治氏)
- kitanakacanal
- 9月7日
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更新日:9月8日

第10回の関内・北仲キャナルパーク盆踊りでは、10周年を記念してクラフトビール祭りを開催しました。クラフトビールのラベルには灯台発祥の地、北仲を象徴する灯台が描かれています。 そこで、今回は、大岡川運河史、横浜界隈研究家・よこはま路上観察会世話人の河北直治氏に北仲の歴史についてお話しいただきました。
北仲歴史物語 北仲は大きく変わりながら時代を見つめています。
◆弁天様
そこは人気の横浜村弁天様がありました。

かつての横浜史を語り始める時、天然の砂嘴状にのびる横浜村のお話は多くの方が知るところです。この横浜村に、「洲干弁天」という名の人気の観光スポットがあったことはまだ知られていません。
開港によって弁天様は移ってしまいましたが、弁天通りや辨天橋に残されています。
◆開港の舞台

横浜村が開港の舞台となりました。この時にいち早く総領事館を北仲に解説したのが「阿蘭陀(オランダ)」でした。
長崎で古くから外交の窓口を開いていたオランダは欧州でその力を失いつつありましたがよく知る日本の情報力を活かして開港の横浜で最高の場所に領事館を設置していました。
◆灯台登場
北仲地区にはシンボル「灯台」が長らく建っていました。
現在日本全国の海を照らす多くの灯台のように実際に運用されたものではなく、試験調整や研修等で長く使われたものです。
建てられたのは明治7年のことです。関東大震災でやや傾き、昭和になって取り壊されてしまいました。
◆地図に見る北仲
戦前の地図から北仲の変遷を少し振り返ってみましょう。

海岸線には初期の桟橋「象の鼻」北仲には「海軍鎮守府(後に横須賀に移転)」が確認できます。よく見ると灯台地図記号が記されています。

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